住職のつぶやき

お葬式

今日はお葬式でした。(と、途中まで書いたまま時間は流れたのでアップした日と違います。)

出棺の時にそれまで気丈に振る舞ってきた一人娘が泣き崩れました。お嬢さんの幼い子供達が「ママ、泣かないで」と語りかけていました。「ママは自分のお母さんが死んでとっても悲しいの。でもね、もしあなた達がママより先に死んだらママはもっともっと悲しくてもっともっと泣くよ。だから絶対先に死んではいけないよ。」子供達にそう言いたかった。葬儀や法事の時、子供がいるときはこう言いたいと思うのですが、友人の自殺したお嬢さんの事が思い出されて泣けてきてしまうのでなかなか言えません。でも、こういう席に来ている子供には何も言わなくても、人が死ぬことがどんなことか少しはわかるのではないのでしょうか。大好きだった人がいなくなること。死んじゃうとすごく悲しいこと。子供達が簡単に自殺しないためにも子供をお葬式に連れてきて欲しい。命の大切さを教える大事な機会だと思います。

先日亡くなられた小林麻央さんはすごいですね。病床にありながら最後まで自分にできることを精一杯なさって。法話で「今ある命を大切に日々ご精進ください」なんてしたり顔で言ってますが、あれは自分にも言い聞かせているのです。いつどこで死ぬのか誰にもわからない。明日かもしれないし、ずうっと先かもしれない。でもいつかその日は必ず訪れるのです。一生懸命生きましょう。自殺なんてしなくても人は必ず死ぬのです。

宗祖弘法大師誕生会

今日は教津会という東寺真言宗、真言宗東寺派の寺院が参加している会の宗祖弘法大師の誕生会でした。ちなみに「タンジョウエ」と読みます。30名ほどの僧侶が一堂に会しお大師さんの誕生をお祝いしました。今年は三光寺がある地区が担当で会が行われたため、私もお役を務めることとなり、あがり症で小心者なので嫌な汗をかきながら参加しました。

「お大師さんは天才なんです。」お大師さんの研究をなさっている高木訷元先生が講義の中で断言されてました。合格祈願もお大師さんにお願いすればいいんです。ともおっしゃってられました。何故だか私にはこの言葉がすごく響いたのです。昨年末にふくらはぎにできた小さい腫瘍摘出する手術をしました。手術といっても日帰りの簡単なものでしたが、なんせ小心者なので「神経が傷ついたらどうしよう」「ケロイド体質だから傷が大きく残ったら嫌だな」「麻酔が効かなくて痛かったらどうしよう」「親知らずを抜いた時みたいに出血が止まらなかったら・・・」などなど心配が次から次へとわいてきたのです。その時思い出したのが「お大師さんは天才なんです。」と言う言葉でした。手術台の上でひたすら祈りました。「お大師さんの能力をこのお医者さんにお与えください。南無大師遍照金剛、南無大師遍照金剛、・・・」お陰様で最初の麻酔の注射を打つ時が痛かっただけで、痛みも、大変な出血もなく無事に手術は終わりました。その後も痛み止めが効いたのか傷が痛むことは全くなく順調に回復し、傷跡もケロイド状にもならず、今ではだいぶ薄くなりました。お医者さんが優秀だったのでしょう。仏さんのご加護もあったのでしょう。祈ることができるというのはありがたいことだと思いました。お大師様の生誕を心よりお喜び申し上げます。

小室圭さん

ミーハーな話題で恐縮ですが、秋篠宮家の眞子様とご婚約される小室圭さんが、私が結婚以来二十年近く暮らしたマンションのすぐそばのマンションにお住まいということで、横浜時代の近所の友人たちと盛り上がり色々な情報が入ってきます。圭さんがアルバイトしていたのはどこそこのお店で卒業された時にはきちんとお母様と挨拶にいらしたとか、お母様が障害者支援のお店でボランティアなさってたとか・・・。色々なことが公になっていく。怖いですねぇ。私なんて何を言われるかわからないのでこういう立場にはとてもなれません。いや、もともとなる要素がないですが(笑)小室さんのお住まいのマンションの入り口には常に警察官が立っているようです。近隣の治安が良くなってありがたいです。色々大変なことが多いことでしょうに、お若くしてこの決断をなさったのは素晴らしいと思います。どうぞ若いお二人が末永く幸せでいらっしゃいますように。僭越ながら心よりお祈り申し上げます。なんだか近所のおばちゃん気分です。

ボクシング

 一昨日、珍しく夢中で村田諒太vsアッサン・エンダム戦をみた。村田は常に前進し、エンダムは後退していた。エンダムは何回か倒れかけた。そして12ラウンド終了。ボクシングなんてほとんどわからないけど「よしっ、村田が勝ったな」と思ったのにまさかの判定負け。twitterを見てみると「なんで?」の中に「ボクシングの判定ってそういうもの」といった意見がちらほら。素人さんにはわからないでしょうねぇということらしいが、そもそも判定って決着がつかないからどちらが優勢だったかで決めましょうというものだろうに。大多数が村田が優勢と思ったんだから、これは判定の仕方自体がおかしいだろう。WBAの会長が謝罪し、再試合を提案したらしいが、その前にこんな変な判定が出ないように判定の仕方を考え直すべきではないのか?
自分がエンダムだったら恥ずかしくてたまらないな。

家族葬

「家族葬について住職としての見解を聞かせてよ」と親しくしている檀家のAさんから言われて「うん、そうねぇ・・」とあいまいな返事をしたままあっという間に時間が流れた。相変わらず仕事が遅いと思われているだろうなぁと思いつつもなかなか書けない。一言で言えば「お施主さんが好きなようになさればいいんじゃない」というところだ。弔問客が一人だろうと、何百人いようと僧侶として私のやることはかわらない。変わるのはお経のながさぐらいだから。でも、Aさんが聞きたいのはそんな事ではない。「すごく世話になった方が亡くなったのに家族葬だったから知らせも来ず最後のお別れもできなかった。こういうお葬式ってどうなの?」ってことだと思う。私も友人が亡くなって家族葬で送られてお別れができなかった。何だかすごく釈然としないものがあった。なんでなんだろう。色々考えてみたのだが、お葬式って亡くなった人と遺された人が最後に交わす挨拶の場なのかと思う。亡くなってもう二度と会えないということをかみしめながら、「この世を去りますよ、今までありがとう」、参列する人間も、「今までありがとう、さようなら」と。そう考えると、残された家族は故人が生きてきた中で関わってきた方々に感謝してお別れの場を設けてもいいのではないかと思う。葬儀屋さんが言うには家族葬だろうと普通の葬式だろうとお施主さんの出す金額はあまり変わらないそうだ。ただ、人を呼ぶとなるとそれなりに煩わしいことが多くなるのは事実だろう。そうなるとやはりお葬式を出す人がどうしたいかになるのかなぁ。あっ、振出しに戻った・・・。
(これはあくまでも僧侶ではなく一個人としての考えです。念のため。)

ありがたい

この間、嫌な思いをすることが続いた。

名前を名乗らず最初から喧嘩腰でいきなり「お墓の権利を持っているものですが、父がなくなったので権利を返したいのですがどうすればいいですか?」という電話があった。お名前をうかがうとうちに墓所をとり長年きちんとお檀家さんとしてお力添え下さった方の家だった。故人はきちんとご供養していただけたのだろうか・・・胸が痛んだ。

法事に持ってくるものを尋ねておきながらまともに仕度をしてこない家が続いた。悲しい気持ちになった。

こういうことがいくつも続くと暗~いきもちになる。

そんな時にあるお檀家さんが「この間話したお酒持ってきました」とお酒を届けてくれた。法事のあとのお齊の席で「住職、盛升のこの時期にでるしぼりたて呑んだことある?美味しいよ。」「話だけじゃねぇ(笑)」という会話を覚えていてわざわざ持ってきてくれたのだ。お酒が美味しかったのはもちろんその気持ちが嬉しくて、暗くなっていた気分がいっぺんに明るくなった。仏さんが「こういうお檀家さんもいるでしょ」と励ましてくれたのかもしれない。ありがたい。これからも頑張ります。我ながら単純だなぁ。