いつ頃からか「いつか富士山に登ってみたい」と思っていました。足が悪くなってきてからは歩けるうちに登らないとという焦りがでてきていました。そこへ高校の同級生たちが富士登山を計画してくれました。でも、大山でさえ満足に登れないのに登れるんだろうか。昨年、尾瀬に行ったあとはしばらく歩くのに不自由する身体になってしまったのに大丈夫か。不安はいっぱいだったけど欲望に負けて参加を決めたのでした。弟子のユウフを荷物持ちに連れて行くつもりで。空身なんとかなるだろうと。
「訓練するように」という登山隊のリーダーのお達しを受けていたのですが、日々の積み重ねが大の苦手。それでも何とか時間を見つけては日向薬師さん、大山寺まで何度か登りました。「足が痛みませんように」「無事に富士登山ができますように」と祈りながら。登山予定日の一週間前に登山を試みた仲間が悪天候で途中で諦めて下山したという話を聞いてからは「お天気に恵まれますように」という祈りも加わりました。
荷物持ちをさせようとしていた弟子に逃げられ不安が倍増。するとリーダーが「荷物もってあげるよ」という優しいお申し出。すみません、すみません、と言いながら万が一に備える着替え、防寒着等を持ってもらうことに。
高校の同級生8名とその友人、従姉の計10人の登山隊。一泊二日、8合目の山小屋に宿泊し翌朝登頂しご来光を見るという計画。女性陣4人とリーダー副リーダーがカメさんチーム。後の男性4名はウサギさんチーム。5合目からは各チームが自分のペースで登りました。ウサギさんチームはあっという間に見えなくなりました。カメさんチームはゆっくりゆっくり、このペースなら高山病にまずならないだろうという速さで進みました。お天気は晴れ。風もあまりありませんでした。暑くてもうダメだぁとなると雲の中に入りひんやり。ほっとしました。それを何回か繰り返すと宿泊予定の山小屋に到着。ウサギさんチームはすでに酒盛り。
8合目から下をみると山中湖、相模湾、伊豆半島、駿河湾、素晴らしい眺めでした。影富士が綺麗に見え、その影はどんどん伸びていきやがて空との間に地球の影が。地球の影?天体に詳しい友人が一生懸命説明してくれたのですが私には理解できなかったので説明できません。そして夜になると下界のあちらこちらで花火が。花火といっても普段見上げるあの大きい花火が小さ~く、ライターの火花のように見えるのです。不思議な光景でした。山小屋の夜ご飯はカレー。美味しかったです。おかわり可で5杯食べた人がいたそうです。8畳ほどの板の間に布団が敷き詰められ雑魚寝。掛け布団は羽毛布団で快適でした。翌朝2時半に出発。夜明け少し前に山頂に到着。日の出を待ちながら昨日残したおむすびを食べました。🎶友達百人できるかな、百人で食べたいな富士山のうえでおにぎりを🎶という歌が頭の中で流れていました。お日様があがると歓声と拍手が。自分の国の国旗を振る海外の人も多くいました。明るくなってから最高峰剣ヶ峰へ。山小屋に戻って朝食。下山に備えて友人が足のテーピングをしてくれました。宝永山をまわって下山。6合目あたりで膝が痛み初めて、友人がスプレーをかけたりサポーターをはめてくれたり、リュックを持ってくれたりしました。足に負担がかからない歩き方をしてくれて何とかバスが出る5合目まで下山することができました。
友人たちの協力で死ぬまでにしたかった夢が一つ叶いました。持つべきものは友。感謝しかありません。
「こんなに良いお天気の富士山は珍しい」と言われるほどのお天気に恵まれたのは仏様の御加護と思います。ありがたい。
感謝の気持ちでいっぱいになった富士登山でした。
朝06時47分に疎遠になっている叔母から電話がきた。けんか腰で「おたくの荷物が沢山うちにあるのはどういうこと?!」という。訳がわからないが亡くなった父の物だといけないので妹と二人で飛んでいった。叔父が出てきて「(叔母の)認知症が進んで訳のわからないことを言ったり激昂したりするから承知しておいてくれ」と言う。叔母が出てきて話し始めた。あきらかにおかしい。妄想だ。この時点で伊勢原市の認知症サポーター養成講座を受難し、『ボケ日和』を読破した私のスイッチが入った。否定せず受け止める。むやみに同意はしないが相手の不安に寄り添う。話しているうちに叔父も年相応に記憶の改竄をしたりボケてきているのがわかった。相手を安心させるように心がけて接する私を見て妹は(お姉ちゃんが天使になった)と思ったそうだ。
高齢化社会です。認知症の人と接する機会が増えます。マンガの『ボケ日和』は簡単に読めます。ぜひ読んでください。自治体が行う『認知症サポーター養成講座』も大変役に立ちます。機会があればぜひ受講してください。
Mさんの華道展を見せていただくのがメインだったのですが、滅多に行けないのでそれなりに観光してきました。
まずはウポポイ。民族共生象徴空間、要するにアイヌ民族の文化を紹介する施設です。私は『ゴールデンカムイ』の愛読者なので興味深く楽しめました。実際にアイヌの人が語るアイヌ語を聞いたり、躍りを見たり、楽器の演奏を習ったりという自分が体験ができるのが面白かったです。
札幌大通公園の巨大なビアガーデン。夏に行ったらここには絶対に行かねばとまだ日が高いうちから出かけて行きました。二人だったのでビアサーバーを注文できなかったのがとても残念でした。
翌朝、テレビで「今日から大通公園でとうきびのワゴンが出ます。」と言うのを聞いて朝一番に並んで買いました。焼きとゆでのハーフアンドハーフ。ところ買ったとたんに土砂降りに。どうしようもなく、チェックアウトしてきたホテルに戻って頼み込んでもう一度部屋に入れてもらいました。もう清掃が入り始めていたのに。親切なホテルでした。有難い。
支笏湖では目的だった観光船が強風のために運休、三ヶ所ある日帰り温泉が全て休館、という運の無さ。でも偶然立ち寄った湖畔のお店の鱒のフライがめちゃくちゃ美味しかったです。
そうそう、レンタカーで移動したのですが道が広くて真っ直ぐで一般道を80キロぐらいでみんな走っているのには驚きました。高速道路の存在意義は・・・。
Mさんとのご縁で楽しい旅をする機会に恵まれました。感謝です。
この夏、珍しく妹の副住職と二人で旅に出ました。檀家さんだった故Kさんの姪子さんのM さんがご自分が主宰で華展をされるというのでそのお祝いに北海道まで行ってきました。
Kさんは子供が無くご主人を亡くしたあとKさんの身元保証人となったのが北海道在住のMさんでした。もっと近くに親戚はいたのですがKさんの希望で何故かMさんが引き受けたのです。Kさんに遺産が有ったわけでも無いのに。MさんはKさんが入院するたびに北海道から飛んできました。手術等の判断は身内しかできないのです。それ以外の事は私達と連絡を取り合って対処しました。私達に心遣いくださり季節ごとに北海道の美味しい物を送ってくださいます。華道の師範としてまた和裁の技術者としても忙しい中でただ叔母であるというだけのKさんの為に本当に良くなさいました。
Mさんにはご子息が二人いらして、ご長男夫妻は10年以上子供さんに恵まれなかったのですがKさんが亡くなってから二人の子供に恵まれ、お二人のお子さんがいらした次男さんにもまた新たにお子さんが授かりました。ご長男の事業も順風満帆。大病を患ったご主人も奇跡的な回復をされました。Mさんも長年教えてきた華道の集大成として華展を開くに至りました。
仏様のご加護と私は思っています。
今回、北海道に行くとご長男が町で一番の旅館を私達に用意してくださいました。その部屋の床の間に掛け軸がかかっていました。そこにはこう記されていました。「積善家必有余慶」善を積む家には必ず幸せがある。本当にその通りだと思いました。
色々福祉についてお勉強させてくれて「新興宗教のお友達が面倒を見てくれるからもういいです。」と離れていったTさんが戻って来ました。お役所から来た督促状の束を持って。
三光寺シスターズのお役所巡りがまた始まりました。「日本の福祉は申請主義って、こんなもん自分でちゃんと申請できる能力があるやつに生活保護はいらん!」とか怒りまくりながら奔走してます。
私たちも学習しましたからもう自分達が損するだけの動きはしませんよ。
それにしても数年前に駆けずり回って全部お膳立てしたのに、新興宗教のお友達は金をおろす以外何もしてくれてなかった。ちゃんと引き継ぎをしないといけなかった。あの時の苦労が水の泡ですわ。
久々に京都でお勉強。
京都に到着すると外人さんが沢山。旗にくっついて列を作って歩いていたので観光ツアーでしょう。東寺に着くと駐車場は観光バスも含めほぼ満杯。そして帰りの新幹線を取るときに副住職と二人並んで席が取れないほど混んでました。
コロナ前の京都に戻った気がします。ちょっと違うのは中国人と思われる人が少ないことかな。